自由な人のブログ

地獄でなぜ悪い

0813

いま思うとクソだと思う男性とのつながりも、セックスも、当時のわたしにとっては生きるための拠り所だった。家を抜け出してセックスする。当時大嫌いだった親を出し抜いたみたいで少し気分が晴れた。とても健全ではないけれど、当時のわたしにはそれしか価値が見出せなかった。股を開くと、綺麗だと言ってもらえる。エロいことを進んですると、喜んでくれる。一般的にみたらそうでなくても、わたしは等価交換のつもりだった。セックスしてるから車をだしてもらう、ホテル代をだしてもらう、現実から少し連れ出してもらう。現実の世界はいつもわたしにとっては地獄だった。理解もされない、理解できない、人と何かずれてる気がする。ずっと本やラジオと対話することでメンタルを保っていたが、処女じゃなくなった日からわたしの世界とつながる手段がセックスに置き換わってしまった。やり捨てとか、セックスだけの相手になっても、悲壮感を感じたことがなかったのは、わたしがそれなりにセックスが好きだったからだろう。セックスフレンドとして割り切れる相手としかそういうことはしなかったし、わたしが選んだセックスフレンドも同じようにわたしに多くを望まなかった。 相手に多くをのぞみたくなったら、一応カップルになった。だがたまに、スマートじゃない男性に引っかかって傷つけられることがある。ややこしいことに、わたしが好きな性癖はSMで、わたしはマゾである。勘違いした愛好者が相手の気持ちなど考えずに好きなようにわたしの身体をいたぶった。そうじゃないんだよ、、と思って泣いた。帰りたい、と泣いたこともある。意外だけども、そういう男性のプライドは崩れやすくてそれだけでガラガラと崩れるらしい。それなら最初から丁寧に愛撫すればよいのに、なんて、上から目線のことを思う。ある日、偶然お付き合いすることになった相手はセックスがそれほど得意ではなかった。もちろんSM愛好者でもなかった。でもその人はわたしを深く愛してくれた。だからノーマルのセックスも気持ちよかった。愛してくれる人とするセックスはこんなにも安心して涙がでるものなのだと、初めて知った。わたしは自分はこんな風に扱われるべき人間なのだと悟ってしまった。今までのことは全て投げやりだった。よくなかった。自分は大切にしなければ。その人とも別れ、ただその考えだけが残った。もう以前のように自傷のようなセックスはできない。自分を傷つけるセックスは痛気持ちいい。でももうできない。どうしてしってしまったんだろう。知らなかったら、そのままずっと自分を消耗し続けて、いつか消えることもできたかもしれないのに。恨み節を吐いてみても、あの人が愛してくれた時間は宝物のままだ。わたしはこれからどこへむかうのだろうか。